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[渓模様] 屋敷川


 『...な、なんてこった!』

 本流から岐け入って間もない小さな支流で、その光景を見て驚いた。鬱蒼とした沢をたった百メートル足らず歩いたところだった。

 交通量の多い国道は、支流のちょうど合流点をまたいでいた。広場へクルマを停め、いつもの軽いテンカラ支度を整え支流に向かったのである。
 開けた国道沿いの本流にくらべ、上流に一軒の住居も持たない野生の面影を残す渓だった。 屋敷川へ続く鬱蒼とした山道
 水量に乏しくても、冷たく透明な流水はここんこんと流れ続け、それは最後の淵で緩んだ直後、落差十数メートルの滝となり本流へ落ちてゆく。飛び跳ねる水飛沫(みずしぶき)は滝の両側で生きる生命の源となって四季を巡る。瑞々しい苔の緑が覆う岩の隙間に、天然シャワーを気持ちよさそうに浴びる小さな百合の白が眩しい。
 滝を背に沢へ立ち入れば、無粋なガードレールが見えなくなって間もなく、立木の枝は頭上にまで広がって辺りを幽玄な世界へ変貌させる。大きな岩に寄り添って構える椚(くぬぎ)の枝には、葛(かずら)の蔓が縦横無尽に巻き付き、渓に屋根をおごっているのである。日光を遮られた渓の縁には、存分の恵みを得たシダが息づいている。
 脈絡無く湾曲した沢を遡り、小さな滝を越えた。たった百メートル足らずの先だった。

 沢沿いの小径は土の地面だったはずなのに...。渓の側にはひん曲がった古木の密林があったはすなのに...。なんてことだ!  何があったのか ! ? 目の前に広がった光景に、しばしそこへ立ち尽くした。いや、立ち尽くすほか無かった。
 踏み固められた土の道はアスファルトで覆われ、密林の古木は規則正しく植えられた杉にすり替えられ、気味悪いほど真っ直ぐに天へ向かって伸びているのである。右を向いても左を見てもそれは限りなく続き、飛び越えた沢の石は、明らかにセメントのかけらだった。そんなことって。
 初めて探検に訪れた渓がこんな渓相だったら、たぶん躊躇することなく竿を納めてしまっていただろう。しかし、13年前に一度、元気な岩魚と戯れているのだ。
 そう、13年前...。


 『どこか山女魚いないかなぁ...明日も仕事、か』

 渓流に魅せられて熱を入れていた深夜。まさに寝ても覚めても山女魚釣りのことしか考えていない頃だった。

 『真詰めだけ釣ろうかな...仕事には間に合うだろう』

 慌てて釣具屋へ走り、餌のを買う。パーマーク(山女魚の体紋)だけを思い描き、それまでに目星を付けていた支流「屋敷川」に照準を合わせた。釣り竿と仕掛けを準備して、3時間に満たない眠りに就いた後の、夜明けより早い朝の釣行。
 予想を上回る素晴らしい渓相を見せた屋敷川は、釣り人の期待を裏切らなかった。
 小さな沢であっても、岩陰の巻き返しに餌を放り込むだけで型のよいアマゴが穂先を絞った。腰魚籠の重さ感じながら、さらに遡上。ゴロタ岩が連なる最上流域に達し、猫の額ほどに水が溜まる小さな落ち込みで一尺近い岩魚が踊った。あちらのツボでも、こちらのエコでも、疑うことを知らない生粋の岩魚は、まったく面白いまでに釣鈎へかかる。
 気が付くと朝もしらみ、時刻は午前8時。

 「ドドーン!」
 「ガラガラガラ...」

 遠くで大きな音が響いていた。
 しかし目論み通りの大漁である。魚籠の中で跳ねる二桁の岩魚とアマゴに酔いしれ、音などまるで意に介さない。勤務に遅刻するわけにもゆかず、納竿。沢を脱出し、意気揚々と土の小径を歩いてクルマに戻るのだった。

 「釣れたかの?」
 「・・・?」
 「どう?、釣れましたかの?」
 「はぁ(?)、はい、まあ」

 不意に呼び止められどぎまぎしながら振り返ると、作業服を着た男が獣道からこちらへ近寄ってきた。

 「どれ、見してみぃ」(見せてごらんなさい)
 「.....」

 ちょっと気分が良い。

 「ほう、こりゃゴギじゃのう。こんなんがおるんか」

 ゴギとは地方の呼び名で岩魚を指す。一番大きな岩魚をかざしては興奮も醒めやらぬまま少々自慢げに言葉を交わし、家路を急いだ。男は、また獣道に消えていった。そして渓に轟く爆破音は再び背後に響き渡ったが、気に留めるともせず渓を跡にした。

 丈一尺のテンカラ竿を右手に立ち尽くした滝の上で、かつての真詰めが脳裡に蘇った。
 なんという・・・言葉にもならない呟きがこぼれ、13年前のあの日を悔いた。
 悔いても仕方のないことだったかも知れない。けれども、あのとき渓へ木霊した不気味な発破の音は、紛れない林野開発の音だったのだ。渓の叫びだったに違いないのだ。
 それに気付くこともできず、ぬけぬけと岩魚を釣り上げ、嬉々として渓を出た。しかも彼らを魚籠から取り出し、よりにもよって当事者に見せびらかすとは...。
 己の愚行に憤ってみても、アスファルトと舶来針葉樹を眼前にしては成す術もない。ただ恥じ入って、後悔の念を押し殺す右手の竿尻だった。

 いたたまれない気持ちに萎えつつも、このまま帰るには忍びなく、馬鹿にきれいな灰色の舗装道路をひた歩く。
 変わり果てた渓相を複雑極まる想いで見つめながら、どこまで文明のメスが入れられたのか、それを認めるまでは本流へ戻ることさえ心残りでならない。
 三面護岸が施された川面には、それでも力強く萱(かや)や熊笹が根を張り、自力で本来の姿を取り戻そうと努めているようだった。その努力に、生き残っていた古木が応え、「わっ」と茂った渓の一角。
 一瞬、視界の片隅をかすめ、何かが茂みに消えた。

 「ツ、ツチノコ ? ! 」

 咄嗟にひるんで独り口走った。
 そんな馬鹿な話なんかない...いや、背中の広さは普通のヘビと同じだったか、全身を見たのではないじゃないか...驚嘆と興奮、それに少しの憑依が、誰もいない渓でしばらく渦巻いていた。

渓は再び人の気配を消し去った... 時計の針を停めたような静けさの中で、遠くの鳥の鳴き声が一筋の渓風に乗って届いた。
 そしてアブラゼミが一声。

 「ミィ〜ン、ミン、ミン、ミン、ミーッ」

 間もなく賑々しい蝉時雨が渓を埋め尽くした。

 「ざわざわざわ...」

 緑の香りがする。潤ったやわらかい木々の葉が見える。水は冷たい。
 藺草(いぐさ)の帽子を目深に被りなおし、毛鈎を手にしてみた。

 『ツチノコなんか居ても居なくてもいい。それと見紛う生き物がまた暮らし始めたのなら...もしかしたら、彼らもまた』

 嬉しくなった。胸の奥底に。期待を詰め込んだ風船が、音もなく俄に膨らんだ。
 アスファルトに這いつくばり気配を消す。コンクリート護岸の崩れたエコへ、そっと毛鈎を運んでみた。

 『出た!...やっぱり!!』

 それは五寸ほどの...しかも腹には、はち切れんばかりの卵を持ったアマゴだった。

 生きていたのだ。
 一昔の前、一旦は叩きのめされた屋敷川は、自然界の生物の強靱な生命力によって、最期の蜘蛛の糸を絶やさことなく連綿と生き続け、時を超えて新たな歴史を刻んでいたのだ。
 一尾のアマゴなど、どうでも良い。
 腹の卵が天敵を逃れ、一尾でも多くの仲間が大きくならんことを祈って、清々しい気持ちでテンカラ竿を納めた。
 また10年。
 こんどは本物のツチノコに逢えることを夢見て。




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