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単調に続くエンジンの音は、未だ寝ぼけた瞼をふたたび閉じよと促して耳へ漂う。
助手席へ無造作に置いたポットの熱い茶を飲みたいけれど、クルマを停め一服するには時間が惜しい。市街地の誰もいない信号機でさえもどかしく待ったのに、茶のごときでサボっている場合ではないのである。
右手の窓に擦れ違うクルマは無く、対向車線を挟んだ向こうには帳(とばり)を下ろしたままで明かりが灯された窓が、ところどころに見える。午前4時半。錦川に沿った国道を走るMGBの運転席。しっとりと潤う川面の朝霧が晴れるにはまだ少し早い。
やがて空の色は朝の気配を見せ始めた。
時計が10分ほど進む毎に路面へ写しだされる山や木立ちの影は色濃く変わり、弱々しい陽射しの中でそのコントラストを少しずつ強調してゆく。道なりに標高が高くなると、屋根を持たないMGBの車内には、清々しい青葉の香りが奥ゆかしく届けられる。日の出に気付いた野鳥たちが一所懸命に何かを告げながら、木から木へせわしなく飛び交う姿が滑稽だ。
宇佐川は、そんな往路の先に流々と横たわっていた。
木野川水系、宇佐川。
下流に雄大な錦川を擁し、錦町広瀬で出合う川。上流部では秘境、寂地峡をその懐に納め、冷たく透明な水を絶えることなく生みだしている。野生の山葵(わさび)が根付く様は、いまや稀な眺めとさえ思える。
春の陽気を過ごし、梅雨に湿った季節を見送った7月上旬の水曜日。ぽっかりと空いた休日の予定に迷った末、テンカラ竿を支度して渓へ入ろうと思い立った。支度といったって何をするでもないのだが、一応、毛鈎の点検と携行品に抜かりがないことだけを確認し、早々と寝床に潜った昨夜の明けだ。
宇佐郷の集落には、まだ暗いうちから仕事に勤しむ農家の人々の姿があった。道を横切る荷車を待つあいだに交わす朝の挨拶は、なによりも気分が良いのである。
「おはようございま〜す」
「ああ、おはようございます」
屈託がなく温かい。
「まだ涼しいですね、ここは」
「どっから来んさったね?」(何処から来たのか?)
「岩国です」
「いわくに(!)、そ〜りゃそりゃ。釣りかね?」
「はい」
「ほいじゃったら、あすこの栗の木の向こうへ行ってみんさい。山女魚がおるけぇ」
「ありがとうございます」
他愛ない会話に違いない。
しかし、過疎と嘆かれた村から離れることなく住まい、ここで暮らす人々だけが持つ渓への愛着を、その短い言葉の端々に垣間見ることができる。その眼に微塵の敵意もなく、どこの馬の骨とも知れない一介の釣り人を温かく迎えてくれる婆さんには、それだけで感謝の思いがこらえきれなくなるのだ。
ネオンに彩られた街なかの人々にもしもこんな気持ちが残っていたら、もう少し街は住みよいのかも知れないな...そんな愚にも付かないことを考えながら、婆さんの教えてくれた栗の木を目指して野道を踏み出した。
畑を回り込み、畦に咲く草花に眼をくれながら、栗の木の下まで来た。渓相は悪くない。白泡が巻き立つ落ち込みの向こうには小さな淵もあり、変化に富んだ流れを見せる渓流である。
さて。
辛うじてテンカラ竿を振ることができる空間を探し、まずは身を潜める。辺りの気配を消したつもりになり、息を殺すのである....奥義、石化け。これでテンカラ師は石と化した、ふふふ...。
手始めに落ち込みの手前へ毛鈎を振り込む。
『ふむ、駄目か・・・』
白泡の右。
『ぬう』
左のエコ。
『.....』
このやろう、ちっとも釣れんじゃないか! >婆さん。
ついに栗の木の向こうでは山女魚に逢えなかった。いや、それどころか、一尾として、ろくすっぽ相手にしてくれない。いよいよ栗の木が恨めしく思えてきた。なにしろ手前の腕を棚上げにした不平不満である。無理からぬことで当たり散らす筋合いは無いのであるが、淡い期待を抱いただけに悔しい。
埒もない文句をつべこべと垂れて、入渓から数時間が経った。鳥は相変わらず飛び交い、水も相変わらずさらさらと流れていた。
『なんだ、魚籠なんか持って来なけりゃよかっった』
ふてくされ気味に沢を遡り、開けた河原へ辿り着く。昼食である。
蝉が時雨れている。さわさわと吹き抜ける渓風が、少し汗ばんだ皮膚に心地よく当たる。切り立った山腹の木立は力強い緑を魅せ、太陽を浴びてきらめく。とにかく空が青い。渓のせせらぎに顔を浸し、いまここに立っている悦びを独り噛みしめてみた。
なんて清々しいのだろう...すっかり機嫌を取り直し、午後の出発である。
さらに遡上。
岩に囲まれた狭い淵だった。
またしても石化け...。
淵頭にそっと落ちた毛鈎に、突如、閃光が走った。
『来た!』
思うが早いか合わせをくれ、そのまま引き抜く。
体長六寸足らず。紋も鮮やかに残した、それは年魚に満たない小さなアマゴだった。
連れて帰るか...昼下がりまで待ち焦がれた今日の初物である。思案に佇んだ大岩の裏側に、時を経てしおれた朝顔があった。少し赤味を帯びた花弁は今朝の勤めを終え、日陰で力少なに俯いていた。明日の蕾へその生気を譲り渡したように。
返しの無い毛鈎を外してやったアマゴは、手元で小さな水飛沫を撥ね、再び宇佐の渓へ帰って行った。
竿をたたみ、栗の木の下まで戻り、MGBのエンジンをかけた。
クライマックスを迎えた蝉時雨は背後でさらなる大合唱を続けていた。
* [ 渓模様 ] 宇佐川 *