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フライフィッシングの歴史は古い。魚釣りに興味のない御仁でも、その名くらいは聞いた経験があろう。短く柔らかい竿を前後に振って巧みに糸を送り出し、「カディス」などという洒落た名前を与えられた川虫そっくりの洋風毛鈎をポイントへ撃ちこんでは、鱒や渓魚を釣り上げる西洋伝来の擬似餌釣りである。
これを嗜む人はフライマンと呼ばれ、じつにスマートな衣服や道具を身にまとい、魚釣りを介して岳(やま)や渓(たに)の大自然と語り合う。
英国北部やアイルランドで発祥したフライフィッシングから生まれたトラディショナルな洋服も少なくなく、スタイルとマナーを重んずる紳士的で格好の良い釣りと言えよう。フィッシングベストを着て粋な帽子なんぞをかぶり、華麗にフライロッド(竿)を操って佇むフライマンの姿は、まこと緑の中にあってジェントルマンに相応しい様だ。
さて、暫時続いた長雨の間、湿っぽいガレージでMGBのエンジンを掛けてみては二酸化炭素中毒を自覚し、慌ててシャッターを開けるような休日を反復していたのであるが、いよいよ痺れを切らせ、ひさかたぶりに手を染めた魚釣道楽。
以来、魚が泳いでいると聞けば淡水も海水も問わず竿を出す無節操ぶりは、まったく我ながら手のつけようが無かったのだけれど、まもなく格好の良いフライフィッシングに辿り着いたのは、洋服屋であるがゆえ、けだし当然のことだったのかも知れない。
英国のトラディショナルなファッションを志し、休日には、フライをもって大自然に戯れる。はっは、まるで絵に描いたようなライフスタイルではないか。
ところが、だ。備前のぐい呑みを愛でてやまないヘソ曲がりな洋服屋は、いざ渓へと降り立った際、なんとフライロッドならぬ古風なテンカラ竿を携えていたのである。
テンカラ釣り。
それは古来より日光や木曽谷に伝わる、伝承的な職業漁師の和式毛鈎釣り。瀟洒な釣りスタイルには遠く及ばない出で立ちと言ったら、そう...熊撃ちのマタギにも近い。釣技においてもフライフィッシングのごとき明瞭な論理性は無く、兎にも角にも経験と勘だけが頼りの、奔放かつ秘匿な渓魚釣りである。
見よう見まねで始めた...と言いたいところだが、さような訳で真似る手本も何もない。独り推考を重ね、野鳥の羽根を拾ってきては夜な々々毛鈎を巻く暗中模索の日々の後、ついに稗原の渓へ岐け入った。
フライマンの卵は、いつのまにやらケチなテンカラ師になっていたのだ。
岩陰に身を潜め、息を忍ばせること数分。ひどく頼りない自作の毛鈎を、僅かな淵をめがけて振り込む。一呼吸の間、毛鈎は水面を漂った次の瞬間、突如、沈み石からアマゴが飛び出す。同時に穂先は「ギュッ」と絞られ、合間なく竿は直立...。
その晩の膳には塩焼きにせしめられたアマゴがのせられ、いつもより上等な酒が干涸らびた備前の器に注がれた。渓相を思い返しながらの一献は、座右の毛鈎箱を肴に、記念すべき「我流テンカラ事始め」の乾杯とあいなったのである。
...病、膏肓に入る。合掌。
* テンカラ事始め *