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太公望


釣魚大全  魚釣である。
 かくも面白からざる道楽が、いったい他の何にあろう...。
 アイザックウォルトンが、釣りの聖書とまで別称された「釣魚大全」を著したのは、じつに1653年にまで遡る。
 五月晴れの朝に出会った、釣り師と鷹匠の軽妙なやりとりで始まる物語は、後になって世界の各地で翻訳がなされ、あまねく太公望に魚釣のなんたるかを説いてきた。
 書架から軽い装丁の和訳本をひっぱり出したのは、割りに最近のことであった。
 魚釣は、中学生のころに始めてから、どうした巡りか数年に一度ずつ発作的に熱中していて、経験が無いわけではない。思うに、最後に釣り糸を垂れたのは、山女魚と対峙すべく名も知れない渓流へ岐け入った、もう十数年も前のことだろう。
 しかし、お茶の子さいさいに釣果を得る師匠にくらべ、こちらは丸でアタリがない。条件が同じでは天候のせいにもできず弁明の余地は残っていない...ようするにヘタクソなのである。ほどなくして竿を拠いた。だって面白くない。

 都合、4度目となる俄太公望は、愉快に魚釣を語る実弟にそそのかされ、俄然と目を覚ますにいたった。
 ながらくの無沙汰者にしてみれば、いまどきの洗練された道具や専門用語といったら、まったく浦島太郎氏のように目が白黒してしまうのだけれど、ともあれ、スタイルも良く、美しく装った女性アングラーなぞを水辺に見るにつけ、その人気のほどは窺えよう。尤も、一方では流行に乗じた馬鹿者どもの心無い諸行も嘆かれるが...。
 さて、その日。
 前評判もはかばかしく、意気揚々として釣り場へ辿り着いた。やおら釣り竿を振りかざしてみては、したり顔で竿の調子なんぞを宣(のたま)い、彷徨するかつての感触に酔いしれるのである。もはや釣り上げたも同然に、嬉々として久しぶりの第一投に胸を躍らせるのであった。
 が、話のように釣れる筈もなく、場所を変え、仕掛を替えては試みる。だが釣れない。ぬぬぬ...日没。無情なままに、その日は納竿。
 なにしろ、むかし取った杵柄とばかりに鼻息を荒らげて乗り込んだものだから、このままでは引っ込みがつかない。間もなく釣具屋と水辺を日参する日々が訪れた。
 目下、3勝5敗。すなわち5度は、うむ、坊主という次第だ。 太公望の道具
 一日じゅう水面を睨み付け、ウンもスンも無いとしたら、いい加減には堪忍袋の緒も切れる。自然の風情に喜悦はしても、まあ、3度が限度というものだ。かかる苦悩を、水の中で魚どもがせせら笑っているのかと思うと、ますます頭に血が上るのである。
 左様な悪態を衝く者をして「短気は釣気」と諫めるのであるが、己が自身を諭していたのでは、あまりにも目出度い。
 されば「釣魚大全」を見開き、かのウォルトンが記すところに依らんとせしめたなら...

 『魚釣とは、瞑想的人間の娯楽である』

 やんぬるかな大脳は、さらに混乱を来すのであった。

 かくて、古今東西のふてくされた太公望は、それでも懲りずに再々竿を執るのだけれども、はて、釣り人とは瞑想的人間なのか、はたまた妄想的人間なのか。
 たまには爆釣してみんかい!>魚



完訳 「釣魚大全(ちょうぎょだいぜん)」 角川選書72
著・アイザック ウォルトン 訳・森秀人 ¥1,340也
なかなか面白いのですよ(のぶお)


* 太公望 *