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[渓模様] 春の山にて

春の小川である  沢靴に足を入れたのは、さて何年ぶりか。
 山女魚の住まう渓の色香に魅せられ、テンカラ竿を振り回すようになったのは、はや数年前のことになる。解禁の日を心待ちに雪解けの様子を察しながら、今年はあの渓へ・・・と思案を愉しむはずの早春。けれども近年といったら、なにやら身の回りが気ぜわしく、山女魚の話しは語るものの、本腰を入れて渓歩きをする機会がとんと無くなってしまったのである。

 「あそこ、良いっすよ。今なら人も少ないだろうし」
 「どこから入るの?」

 そんな会話をするのだけれど、ついぞまともに竿を振った試しは無い。
 ときに今、ひょんなことから関わりを持ったホームページで「桜の風景競演」なる企画をプロデュースすることになった。岩国各地の桜絵を集めて、みなで満開の桜樹を愛でようという魂胆。これが活況を呈し、またしても渓から遠ざかる羽目になった昨今なのだけれど、桜の花が散ってゆくにつれ少しずつ激務が薄らいできた。
 そんな水曜日。
 午前9時を過ぎてのこのこと起床。寝ぼけ眼で休日の予定を頭に巡らせた。とりわけ急ぐ仕事も無い。ふと渓の風景が思い出され、すっかりやる気になっちまったのである。
 いつでも出陣できるよう整えたテンカラ支度は、しかし物置の片隅で埃っぽく無造作に置いてあったのだが、いそいそと着替え、背負う荷物の中を確認し、いつもの帽子を頭に乗っけたら、はっは、気分は一気に昂揚。すっかりテンカラ師になりきってしまうお目出度い正午前。
 だいたいこんな時刻に渓へ行ったところで、山女魚など釣れるはずもないのであるが、まあ、数年ぶりに竿を振るトレーニングか、いや山の中で景色を愉しみつつ、渓のせせらぎを感じるもまた悪くなかろう。とにかく急げ、急げ。

うはは!  眼鏡をかけかえ、流れの側へ身を潜めて近づき、水中に眼を凝らせる。
 ススッと魚影が走る。

 『ふう・・・ハヤか、よし・・・』

 小手調べに毛鈎を振り込むと、確かにハヤは確実に飛び出す。が、これでは仕方ない。
 流れの畔まで歩み寄り、息を殺して遡上する。堰堤から落ちる水の縁へ毛鈎をおいたそのとき、ハヤとは違う明らかな銀影が水面に踊った。
 反射的に合わせをくれ、毛鈎を引き抜いてみると、なんとも可愛らしいアマゴの幼魚である。

 『はっは、こりゃ可愛い』

 菜の花が咲く川縁の草むらで出会ったアマゴの子。元気に育ってくれよ、と思いを込めて再び流れに放してやったのだけれども、すると、すっかり釣り終えたような気になって、ここで竿を納めることにした。
 渓でのんびりしてみるのも悪くない。手前のヘタクソを棚に上げ、谷間のせせらぎを漫ろ歩く。山々には色とりどりの花が咲き、鳥が啼く。一筋の沢風が、少し汗ばんだ頬を通りすぎていった。サングラスを外してみると、杉の樹の上の太陽がやけに眩しく見えた。
 暖かい陽射しを浴びて大地へ横たわった。すると、一匹のテントウ虫が一所懸命に草葉の上を目指して登っていることに気づいた。健気なその姿に、おおきな深呼吸を誘われた。

 山にも、春が来た。

テントウ虫




* [ 渓模様 ] 春の山にて *