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青銅色をまとったデカンタは、ほどよい酒を満たし、膳の三分所へ配される。芳香な匂いを口元へ運び、酒は勢い良く注ぎ込まれ、のどの辺りから胃袋へしみわたるのである。腰の辺りを包む右手は真新しい器の感触を確かめつつ、空けた器の底に彩られた金筋を愛でるのだ。重からず軽からず...器は再び膳に戻され、次なる一献を注がれるのを待つ。
巷にプレゼントが飛び交うクリスマス。洋服屋とクリスマス屋を営む身の上は他人様の贈り物を見立てることは多かれども、己の懐の心配をしている余裕などほとんど無い。ところが、その年のクリスマスには、どうした風の吹き回しかメリークリスマスの一語を添えた包みが集まった。喝采。
さほど有識ではないのだけれど、器には素人なりの興味を持って羨望していた。何を用いて盛りつけようと決して味が変わる道理はないというのに、趣を違えるだけで、箸の運びが異なる。とりわけ気に入った器に凛として盛りつけられた食材は、やはり一枚も二枚も上の味覚を思うのである。
システマチックに仕立てられた洋食器に比べ和食器は、使い勝手を重んじた造形、あるいは作家の感性が息づき、その種はまさに天衣無縫。大きい物もあれば、曲がったような器でも場合によっては優れた器として珍重される。
さらには使う者の好みが優劣を勝手に宣うのだから、より奥深い趣向品と言えよう。決して高ければ良いというモノではない。いにしえより大和人が培った趣向は、21世紀を目前に控えた現代人にも本能として息づいているに違いない。
青銅色のデカンタは、そんな年の暮れに贈られた。
贈り物を頂戴するときは、如何ような次第か方々からいろいろな趣向の品が集まってくるのである。まったくもって感謝の限りなのだ。
フランスから取り寄せたという1本のボジョレーヌーボーを頂戴したのも、時を前後した同時期だった。
萩焼とボジョレー。ふむ...クリスマスを祝うには丁度良い仕立てではないか。なにしろ強烈に忙しい時節なので、自らの意志でクリスマスの仕掛を企む余裕は無く、専ら人任せに膳へ就くような例年の始末。これは願ってもない機会に恵まれた。
若々しい色をした葡萄酒は、かのデカンタへ注がれると俄に青みを増す。器の確かな手応えと、ボジョレーの独特な風味を堪能しつつ、数杯を重ねるのである。気の利いたオードブルなどあれば、それは豊かなクリスマスではないか。さて...オードブル。
そういえば京都の親戚が希有な某を手配し、これを贈ってくれたと便りがあった。しめしめ、しからばと箱を開けるや、なんと「すぐき」である。蕪(かぶ)のような野菜を漬け込んだ、非常に酸っぱい漬け物。
...ま、まぁ、悪くないか。いずれも天然食材であり、和洋折衷の見本のようなコーディネィションは、もしかしたら新鮮な味わいに出逢うかも知れぬ。
まか不思議な食べ合わせに箸を遊ばせる食前の後。続く夕餉。チキンかサーモンでも出てきたら、これはベストマッチである。期待に胸を膨らませ、配膳なった器を凝視すると、はて?
うどん(マジかよ...)。
ボジョレーに萩のデカンタ、すぐき、うどん...どんなんじゃい!
かくしてクリスマスの夜は過ぎていったのである。棚からぼた餅とは、どうも思うようには成らぬらしい。
* 萩焼とボジョレー *